昨日開催されたゴー宣DOJO「チェブリンに保守思想を分かるまで教える」今回、私が最も「収穫」と感じたのが、「思想」と「イデオロギー」の明確な切り分けでした。
「思想」という言葉は、非常に多くの場面で誤用され続けてきたと思います。
まず根本的に、「思想」という言葉が使われる際、実際には「イデオロギー」を指している事が少なくありません。
例えば「思想犯」と言った場合は(主に左翼系の)強固なイデオロギーに基づいた活動を実行している者を指します。
たぶん、いちいち物事と対峙して深く考える(きちんと思想する)ような人物であれば、覚悟のないテロで無関係の人々を殺傷した上で保身のため逃亡するような行動はとらないでしょう。
また「思想信条」という言い方もよく使われますが、固定された「信条」へ盲目的に従属するのは、動詞としての思想とは対極の態度と言えるでしょう。とても矛盾したくくり方です。
ideologyは「idea」(観念)と「logos」(「言葉」と同時に、その機序である「思想」の意も包括する)の合成語なので、イデオロギーはある一つの条件(観念)下で思想された結果の「産物」でしかありません。
自分の中で理解するため、思想を「弁当工場」、イデオロギーを「弁当」という例えを思いつきました。
弁当工場は、その日の注文や旬の材料といった条件の下、毎日弁当を作ります。
出来上がった弁当は、作ってしばらくは美味しく食べる事ができます。イデオロギーにも「一定の意義」があるのは、弁当と同じで賞味期限(法定の期間だけでなく、腐ってないか食べる人の判断も必要)の範囲内でしかありません。
翌日になると、弁当工場はまたその日の注文と材料の仕入れを元に、新しい弁当を作ります。これが「思想のアップデート」です。
ところが、世の中には変わった人もいて、「これは良い弁当だ!」と思うあまり、製造から何日も、何ヶ月もたった弁当(当然、腐っています)を後生大事に持っている人もいて、あろう事か「ほら!これ旨いぞ!食え!」と人の口に押し込もうとする迷惑な輩までいます。
イデオロギーには、必ず賞味期限が存在します。腐った弁当同士で「どっちがマシか」を罵り合うほど虚しい事はありません。
「保守思想」は、美味しくて人々の栄養になる弁当を作り続けられるよう、工場をメンテナンスしながら経営して行く事だと思います。
「人体への栄養供給」であれば、全ての栄養素を点滴や錠剤のみで供給する、「合理的」な人工的手法もあると思いますが、私個人としては「感情」がそれを受け付けません。面倒ではあっても、弁当工場の継続のために奔走し続けたいです。
あれこれ考えていると、こんな戯れの想像が、ごくプライベートな「脳内エンタメ」としてどんどん浮かんで来ます。
「思想する」って仰々しいものでも、ましてや他人にマウントするためのものでもなく、とても愉しい一生モノ(人生そのもの)の娯楽だと思います。